当ページでは、良く言われる閑話(むだばなし、雑談)ではなく、
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合掌  南无阿弥陀佛

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本願の三心は各々ばらばらにあるのではなく、信楽一つ
学び

第十八願はなぜ信心一つなのか 3  10月15日

 

 今までお話したように、本願の三心は各々ばらばらにあるのではなく、信楽一つの中に至心も欲生もおさめられているので、信心一つといわれるのであり、これを「三心即一」(三心即一は本願固有)といっているのです。
 しかしこれは、私たちが本願文のみを見たところで理解できるものではありません。お釈迦様のご指南を仰ぐことにおいて可能なことなのです。

 親鸞聖人は、本願の信楽をご解釈くださって、
「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。」
(『註釈版聖典』234頁)
と示されています。真宗の信心とは、名号のおいわれに対して疑いがなくなったところを信心と名づけるということであり、私自身がつくる信、わたしの確信といったことではないことを知らねばなりません。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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