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合掌  南无阿弥陀佛

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真宗には「たのむ」とか「ねがう」ということはない
学び

「たのむ」と「ねがう」の言葉の理解  10月21日

 

 真宗には「たのむ」とか「ねがう」ということはないと聞かされていますが、「ご和讃」や「御文章」を拝読していますと、「たのむ」とか「ねがう」というお言葉が出てきます。あれはどう理解したらよいのでしょうか。

    「たのむ」とか「ねがう」とかと、言葉は易しい言葉ですが、内容的には大変むつかしい質問です。
 まず第一の問題は真宗には「たのむ」とか「ねがう」ということがないというときの「たのむ」とか「ねがう」という意味は、祈願請求を指しているのです。
 自己の欲望を宗教という聖なるベールに掛け、これを肯定しようとするようなことは、当然否定されるべきであり、もしも、宗教という名の下にそのようなことが行われているとすれば、それは人間のもつ欲望をうまく利用しているだけにすぎません。
 だから、純粋宗教とか真実の宗教といわれるものには、本来的に自己中心的欲望をストレートに肯定するような教義を持ちません。真宗が祈願請求を否定するのは、真宗が真実の宗教であることの宣言でもあります。

 次は、でも「ご和讃」や「御文章」のなかに、「たのむ」とか「ねがう」とかいう言葉が出てくるのではないかとういう問題です。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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