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合掌  南无阿弥陀佛

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お聖教の「たのむ」や「ねがう」は祈願請求の意味ではない
学び

「たのむ」と「ねがう」の言葉の理解 2  10月24日

 

 なるほど、確かにお聖教のなかに、「たのむ」とか「ねがう」とかいう言葉があります。例えば「ご和讃」には、

 仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし
   (『正像末和讃』註釈版聖典 614頁)

 安楽国をねがふひと
 正定聚にこそ住すなれ
 邪定・不定聚くにになし
 諸仏讃嘆したまへり
   (『浄土和讃』(『註釈版聖典』560頁))

などとあります。また『御文章』にも、
 南無といふ二字のこころは(中略)疑いなく一心一向に阿弥陀佛をたのみたてまつるこころなり。
  (五帖目十一通『註釈版聖典』1198頁)
 常住の極楽をねがふべきものなり。
  (五帖目十一通『註釈版聖典』1197頁)

などとあります。

 ところが、お聖教にある「たのむ」も「ねがう」も、祈願請求の意味ではありません。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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