当ページでは、良く言われる閑話(むだばなし、雑談)ではなく、
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合掌  南无阿弥陀佛

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唯円房のような質問が出て当然だと思われます
学び

信心とよろこびの関係は 3  11月27日

 

 さて、『歎異抄』にありました「踊躍歓喜」の言葉は、もとは『大経』の「歓喜踊躍 乃至一念」(『註釈版聖典』 81頁)によるものです。  そして、親鸞聖人は、この「歓喜踊躍」を『一念多念証文』にご解釈されて、
 「『歓喜』はうべきことをえてんずと、さきだちてかねて喜ぶこころなり。『踊』は天にをどるといふ、『躍』は地にをどるをいふ、喜ぶこころのきはまりなきかたちなり」
とあります。
 信心の行者は天におどり、地におどる喜びが喜びがあるとされています。だからこそ、あなたのような、また唯円房のような質問が出て当然だと思われます。

 これに答えて『歎異抄』は
 「よくよく案じてみれば、天にをどり地にをどるほどに喜ぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。喜ぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」(『註釈版聖典』 836〜7頁) とあります。
 理屈から言えば、地獄一定が成仏に決定づけられるのですから、天に踊り地に躍るべきはずである。だが、よろこべないのは煩悩のせいである。
  その喜ぶ心を抑える、煩悩具足の凡夫こそが、阿弥陀如来さまの本願のお目当てなのだ、といわれています。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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