当ページでは、良く言われる閑話(むだばなし、雑談)ではなく、
私自身がお寺の住職の一人として、日頃感じたこと、見たもの等…について
感話(感じたままをお話し)させて頂こうと思っております。
ご感想などございましたら、お気軽にお聞かせ頂ければ幸いです。
合掌  南无阿弥陀佛

 
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歎異抄より
学び

まことのことば 30  9月26日

 

「わたくしは、口に念仏を申しておりますものの、心にとびたつほどのよろこびがなかなかおこりません。
また、いそいで浄土にまいりたいと思う心もおこりませんが、どうしたことでしょうか。」
とお尋ね申しあげたところ、
 
『親鸞もそれと同じ不審をもっていたが、唯円房そなたも同じ思いであったか。
よくよく考えてみると、天にもおどり地にもおどるほどによろこばねばならぬはずであるが、それがなかなかよろこばれないのである。
しかしそれでこそ、いよいよ浄土にまいらせていただくことに、まちがいないと思うがよい。
 
よろこばねばならぬ心をおさえて、よろこばせないのは、煩悩のしわざである。
ところが阿弥陀如来はかねてよりそれを見抜かれていて、わたくしたちを、煩悩具足の凡夫よ、と仰せられたのであるから、大悲の本願は、このようなあさましいわたくしたちのためであったと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。
いそいで浄土へまいりたい心もなく、すこし病気にでもなれば死ぬのではなかろうかと感ずることも、煩悩のしわざである。
久遠のいにしえより流転を重ねてきた苦悩のふるさとは捨てがたく、まだ見ぬ安養の浄土は恋しくない。よくよく煩悩のはげしいことである。
 
なごりおしくはあってもこの世の縁がつきて力なく生涯を終わるときにかの浄土に往生するのである。
いそいでまいりたい心のない凡夫を、如来はことにあわれみたもうのである。
だから、いよいよ大悲の誓願はたのもしく往生はまちがいないと思いなさい。
おどりあがるほどによろこぶこころもあって、いそいで浄土へまいりたいということであれば、この人は、煩悩がないのではないかとあやしく思われるのではないか』
とお答えになりました。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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