当ページでは、良く言われる閑話(むだばなし、雑談)ではなく、
私自身がお寺の住職の一人として、日頃感じたこと、見たもの等…について
感話(感じたままをお話し)させて頂こうと思っております。
ご感想などございましたら、お気軽にお聞かせ頂ければ幸いです。
合掌  南无阿弥陀佛

 
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学び

謹賀新年  1月1日

 

あけましておめでとうございます。

皆様におかれましては健やかに2009(平成21)年の新春をお迎えのこととご拝察申しあげます。今年こそ穏やかな年になりますよう切に念願しております。 今後も何卒変わらぬご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申しあげます。

―ご法話―【道徳(どうとく)はいくつになった】
お正月を迎えると、いつも思い浮かぶ聖典の言葉があります。それは『蓮如上人御一代記聞書』の「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさ い。念仏といっても自力と他力とがある…」(『同』現代語版3頁)という言葉です。 これは明応二年(一四九三)の元日、蓮如上人が門弟の道徳さんに向かって語られたと伝えられている言葉です。ここで注意しなければならないのは、「念仏 といっても自力と他力とがある」というところです。
道徳さんは、新年のご挨拶にうかがったのに、蓮如上人という方はいきなり、お念仏を申しなさい、しかも、自力のお念仏ではなくて、他力のお念仏を…と。 お正月早々、なんと、きびしいことを言われるお方であろうとの印象を受けます。しかし、大切なことであればこそお正月早々、引き締まった年頭の挨拶の時 におっしゃったのでしょう。
昨年、新聞広告で誤用され話題となった浄土真宗の大切な言葉「他力」。蓮如上人は道徳さんに、この他力を「他の力」とよみ、阿弥陀如来の本願のはたらき という意味だとお説きになりました。そのはたらきから申す念仏を「他力の念仏」といわれるのです。 これに対し、誤りである「自力の念仏」というのは、お念仏を自分の能力で称えられるものと誤解して、念仏を数多く称え、その功徳によって仏が救って下さ るように思いこんで称える念仏であると誡(いまし)められたのです。すなわち、阿弥陀如来の大いなるはたらきが至り届いてお念仏となって下さったにもか かわらず、私の能力、私が先手であるという認識で称えるのが自力の念仏なのです。

(大阪・光蓮寺衆徒 稲城 蓮恵 / 本願寺新報および本願寺ホームページより抜粋)
合掌 南无阿弥陀佛
 

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