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13章 『あの日』を忘れない |
小林 文雄 |
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○ [暗闇と猛火の中の必死の救援] 炊き出しのムスビが運ばれた様である。今度は奥の方から今まで渡っていないところからと、配意の中で一ケが配られた。それは「水を得た魚」の喩え話があるが、全くその通りで、食した者はそれなりに活気を取り戻した。 午後8時前後に、医者から重傷者は他の病院に移すという話を耳にした。 やがて次々と移動先の病院の名が出されていった。 垂水、明石、姫路、大阪方面等々である。 10〜30分おきに救急車が来る。搭乗患者は3人迄の様である。医者の判断で病院先を選び搬送されるのであろう。私は自分もどこかに搬送されるか、ここでこのまま時を待つのかと不安が高まった。 ロビーの方、あるいは診察室、どの位の重傷者が居るか私には定かでない。その都度医者が対応してゆく。 私は、もし自分の順が来ればどこへ運ばれたかを明確にする必要があると判断した。 知愛さんは私がここに収容されている事は承知している。しかしどこかに運ばれた事は伝達の必要ありと、初めて看護婦に氏名と住所を話した。 午後9時が近づいていた医者の話しから「順次運んでいるが今日は次ぎに来る救急車が終わりのようだ……」との話しである。 数分後であろうか、やがてその救急車が到着し、それに3人乗るとの事である。2人は乗せられ、次に救急隊の人が「次はどの患者さんですか」と向こうの方から叫んだ。 私はこの時、このチャンスを逃してはと必死に手を掲げ「私……私コチラコチラ」と合図を送った。 合図が解ったようである。白いヘルメットの2人はこちらに近づいて来るではないか。シメタ、私の横に来てくれた。先生も私を順番に入れていてくれた。最後の3人目に乗れることになった。 タンカの4人にかかえられ、朝からの着の身者のままである。後ろへは下れず、人、人の混雑である。タンカーは診察室の中に入り、回転して外に出る有様である。 出発寸前、先程の看護婦さんに伝達よろしく、と言い残し、多勢の患者の中をかき分け玄関の救急車に乗った。 13時間に余る苦痛と悲しみは、この救急車の迎えによって一命をとり止めるよろこびと安堵になった。 しかし、どこへ行くか行く先は全く解らない、もう聞く必要もなかった。 名前と住所等々が即刻役立つことも知らずに……、火柱が見え、猛煙の中を意識もうろうとしながらの車中であった。それは後から被災状況を映す、テレビ画像、火の海と化した、神戸の街の様子であった。 到着した時間は午後9時頃と思う。病院は明々と電気がついている。「国立神戸病院」である。玄関に着く、それは立派な施設で、ここは地震の被害がなく全く嘘のような極楽地を想像した。 タンカのままキャリに乗せられ受付の前に行く。白衣の医師、看護婦が待機している。医師から「大変だったね、大丈夫かな、ここへ来ればもう大丈夫」名前と住所をきかれる。「香川県、何々……」と話すとレオマワールドの話が出た。先生のネームが今だに頭に残っている。池田正則先生、傍に添った看護婦さんは池尻智子さんと記憶している。 生死を分けた苦痛の15時間、これでやっと助かると内心安堵した。親切な応待と手当に感謝する。 レントゲン撮影他、体の検診を終え、午後10時頃病室に移され、病院の衣服に取り替えた。採尿、尿管挿入、12時間用点滴、体に痛みを訴え2回目の座薬で処置した。 後は意識もうろう……、ここから国立神戸病院の入院生活が始まる。 ・闇を行く 神戸激震 地獄の絵巻 救急サイレン 止む時何時ぞ 追記……書出しから、国立神戸病院へ収容される迄の記述は、入院後メモ用紙に要点を記載していた。その出来事ひとつ一つが脳裏に焼きついた忘れられない記憶を思い出し、記したものである。 |
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