当ページでは、良く言われる閑話(むだばなし、雑談)ではなく、
私自身がお寺の住職の一人として、日頃感じたこと、見たもの等…について
感話(感じたままをお話し)させて頂こうと思っております。
ご感想などございましたら、お気軽にお聞かせ頂ければ幸いです。
合掌  南无阿弥陀佛

 
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聴聞の大切さは、そのまま信心の大切さ
学び

聴聞とは何をどう聞くのか 4  10月6日

 

 わたくしの側に、成仏の何の可能性も持ち合わせていませんでした(捨機)ということは、そのまま、だからこそ救わずんばならぬとの阿弥陀如来さまの願力に打ちまかせること(託法)であります。
 また、自力が捨たった(捨自)ことは、そのまま他力の法に帰した(帰他)ということであって、これを、捨機即託法、捨自即帰他といっています。
 さて、捨機(自己に成仏の可能性を持ち合わせていないこと)は二種深信でいえば、機の深信にあたります。また託法(堕ちる衆生を必ず救う法の存在を知らされる)は、二種深信でいえば法の深信と同一内容なのです。二種深信は、二種は一つであって一信心の内容なのです。
 本願成就文にある「聞」について、親鸞聖人のご解釈を解説してきましたが、その行き着いたところは信心でした。

 真宗で、聴聞の大切さをいうのは、そのまま信心の大切さをいっているのです。
 そして、何を聞くのかについては、佛願の生起本末を聞くのであるということです。
 でも、漠然と聞くのを聞くとはいいません。
 どう聞くのかについて、親鸞聖人は「疑心あることなし」といわれています。すなわち、佛願の生起本末を聞いて疑うこころがないのを、本当に聞いたということであるといわれていることに注意せねばなりません。
合掌 南无阿弥陀佛
 
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